「もう恋なんてしない」そう思っていた私に、また恋が訪れた。

第1章 恋を捨てた夜

 三年前の冬、私は恋を捨てた。

 正確に言えば、捨てたつもりになっていた。

 午後十一時を過ぎた部屋には、暖房の低い音だけが響いていた。

 テーブルの上には、二つのマグカップ。

 白いカップは私のもの。

 もう一つの青いカップは、彼――高橋恒一のものだった。

 五年間、何度も二人で使った。

「ただいま」

 誰もいない部屋で、私は小さく言った。

 返事がないことには、もう慣れていた。

 その日の夕方、私は恒一のスマートフォンに知らない女性から届いたメッセージを見つけた。

 最初は、見間違いだと思った。

 次に、信じたくないと思った。

 そして最後には、全部わかってしまった。

 彼には、私以外の人がいた。

「どうして……」

 問いかけても、恒一は目を逸らした。

「ごめん」

 その一言で終わった。

 五年間が、あまりにも簡単に終わった。

 一緒に行った旅行も。

 誕生日にもらったプレゼントも。

 喧嘩して仲直りした夜も。

 結婚したら住みたいね、と話した未来も。

 全部が、彼の「ごめん」という一言の前では、何の意味も持たないように思えた。

 帰宅してから三時間。

 私はずっとソファに座っていた。

 泣きすぎて、もう涙も出なかった。

 スマートフォンが震えた。

 画面には恒一の名前。

 私はしばらく見つめたあと、電源を切った。

 そしてテーブルの青いマグカップを手に取った。

 五年間、彼が使ったカップ。

 指先が震えた。

「……もう、いらない」

 私はそれをゴミ袋に入れた。

 ガチャン、と小さな音がした。

 それだけだった。

 もっと胸が痛むと思っていた。

 けれど、不思議なくらい静かだった。

 私は白いカップだけを残した。

 そして、ひとりで呟いた。

「もう恋なんてしない」

 誰かを好きになるのは、幸せなことだと思っていた。

 でも違った。

 好きになればなるほど、失ったときに痛い。

 信じれば信じるほど、裏切られたときに壊れる。

 だから、もう誰も好きにならない。

 誰にも期待しない。

 誰かと未来を約束しない。

 そうすれば、もう傷つかない。

 窓の外では雪が降り始めていた。

 白い雪が、街灯の光を受けて静かに舞っている。

 私はカーテンを閉めた。

 その夜、私は恋を捨てた。

 そして三年後。

 私は、自分がもう一度恋をすることになるなんて、想像もしていなかった。

第2章 三年後の私

 三年という時間は、長いようで短い。

 気づけば私は三十歳になっていた。

 出版社で編集の仕事をしている私は、朝から晩まで原稿と向き合う毎日を送っていた。

「水野さん、この校正、今日中にお願いできますか?」

「はい。確認しておきます」

 仕事は嫌いではなかった。

 むしろ好きだった。

 誰かが書いた物語を読み、言葉を選び、ひとつの本に仕上げていく。

 恋愛小説を担当することも多かった。

 それなのに、自分の恋愛について話すのは苦手だった。

「美咲、また仕事してるの?」

 昼休み、奈緒から電話がかかってきた。

「仕事しないと終わらないから」

「そういう意味じゃない。今日、何時まで?」

「たぶん九時」

「また?」

「また」

 奈緒は大学時代からの親友だ。

 私が恒一と付き合っていた頃も、別れた夜も、ずっとそばにいてくれた。

「ねえ、美咲」

「なに?」

「最後に誰かを好きになったのって、いつ?」

「……三年前」

「やっぱり」

「何が?」

「三年間、一度も恋してないでしょ」

 私は黙った。

 図星だった。

「別にいいじゃない」

「いいけどさ」

 奈緒の声が少し優しくなった。

「恋しなくても生きていける。でも、恋しないことと、幸せになることは同じじゃないよ」

「……」

「まあ、今すぐ彼氏を作れって話じゃないけど」

「わかってる」

 電話を切ったあと、私は窓の外を見た。

 夕焼けがビルの間に沈んでいた。

 恋をしなくなってから、私の毎日は平和だった。

 傷つくこともない。

 期待することもない。

 誰かを待つこともない。

 それは、とても安全な生活だった。

 でも、ときどき思う。

 安全であることと、幸せであることは、本当に同じなのだろうか。

 その答えを、私はまだ知らなかった。

 その日の夜は、私の三十歳の誕生日だった。

 仕事帰りにコンビニへ寄り、小さなショートケーキをひとつ買った。

 部屋に戻り、箱を開ける。

 ろうそくはない。

 拍手してくれる人もいない。

 私はスプーンを持って、少し笑った。

「お誕生日おめでとう、私」

 一口食べる。

 甘かった。

 でも、なぜか少し寂しかった。

 そのときはまだ知らなかった。

 数週間後、この何でもない日常に、一人の男性が入り込んでくることを。

 そしてその人が、閉じたはずの私の心を、少しずつ開いていくことを。

第3章 雨の中の男

 その日は、朝から雨だった。

 午後になっても雨は止まず、夜になるころにはさらに強くなっていた。

 私は会社を出てから、傘を持っていないことに気づいた。

「最悪……」

 朝は晴れていた。

 天気予報を確認した記憶もない。

 私はビルの入口で立ち尽くした。

 タクシーを呼ぼうか。

 そう思ったときだった。

「よかったら、使いますか?」

 後ろから声がした。

 振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。

 三十代前半くらい。

 濡れた黒髪。

 手には大きな黒い傘。

「え?」

「駅までですよね?」

「はい……」

「じゃあ、どうぞ」

 彼は傘を私に差し出した。

「でも、あなたは?」

「僕は走れば大丈夫です」

「いや、それは……」

「風邪ひかないようにしてください」

 そう言って、彼は笑った。

 私は戸惑いながら傘を受け取った。

「ありがとうございます。でも、明日返します」

「はい」

 彼はそれだけ言うと、雨の中を走り出した。

「ちょっと……!」

 呼び止めようとした。

 でも、彼はもう角を曲がっていた。

 私は傘を見つめた。

 黒い傘。

 持ち手には、小さな傷がついている。

 どうして知らない人に傘を貸したのだろう。

 そう思いながら、私は駅へ向かった。

 翌朝。

 エレベーターに乗った瞬間だった。

「おはようございます」

 昨日の声。

 私は顔を上げた。

「あ……」

 彼がいた。

「昨日の傘、ありがとうございました」

「こちらこそ。ちゃんと帰れました?」

「はい」

 私は傘を差し出した。

「お返しします」

「よかった」

 彼は傘を受け取り、少し笑った。

「昨日、雨すごかったですね」

「本当に。濡れませんでした?」

「まあ、少し」

「少しじゃないですよね」

「バレました?」

 私は思わず笑った。

 エレベーターが止まる。

 彼は七階で降りた。

「僕、七階なんです」

「そうなんですね」

「桐谷直人です」

「水野美咲です」

「水野さん」

 彼は私の名前を一度繰り返した。

「また」

「え?」

「会社で会ったら、よろしくお願いします」

 ドアが閉まった。

 私はひとりになった。

 なぜだろう。

 たった数分しか話していないのに。

 彼の「また」という言葉が、妙に心に残った。

 恋なんて、もうしない。

 三年前、そう決めたはずなのに。

 このとき私はまだ、その決意が少しずつ揺らぎ始めていることに気づいていなかった。

第4章 コーヒー一杯から始まった

 桐谷直人と会うようになったのは、それからだった。

 エレベーターで会えば挨拶をする。

 廊下ですれ違えば、少し話す。

 それだけだった。

 でも、なぜか私は彼を意識するようになった。

 ある日の夕方。

「水野さん」

 会社を出ようとした私を、直人が呼び止めた。

「はい?」

「今から時間ありますか?」

「え?」

「コーヒーでもどうかなと思って」

 心臓が小さく跳ねた。

 それを悟られたくなくて、私は資料を抱え直した。

「……どうしてですか?」

「どうしてって?」

「突然なので」

 直人は少し考えてから言った。

「もっと話してみたいと思ったからです」

 その言葉に、私は困った。

 嬉しい。

 でも、怖い。

「すみません。今日は……」

「はい」

 彼はあっさり引いた。

「また今度」

 その「また」が、また残った。

 帰宅してから、私は奈緒に電話した。

「誘われた」

「誰に?」

「桐谷さん」

「誰、それ?」

「会社の人」

「ほら!」

「何が?」

「恋の気配!」

「違うって」

「で、断ったの?」

「……うん」

「なんで?」

 私は答えられなかった。

 怖いから。

 また好きになってしまったら。

 また誰かを信じてしまったら。

 また失ったら。

 その夜、私は眠れなかった。

 そして翌日の夕方。

 仕事を終えた私は、会社の入口で直人を見つけた。

「桐谷さん」

「水野さん」

「昨日の……」

「はい」

「コーヒー」

 直人が目を丸くした。

「行きます」

「本当に?」

「はい。でも、一杯だけです」

「わかりました」

 近くの小さなカフェに入った。

 私はブラックコーヒー。

 直人はカフェラテ。

「編集の仕事って大変ですか?」

「大変です。でも好きですよ」

「いいですね」

「桐谷さんは?」

「広告です。人の気持ちを動かす仕事なので、難しいです」

「じゃあ、似ていますね」

「そうかもしれません」

 話していると、不思議だった。

 初めてなのに、気を使わない。

 無理に話題を探さなくてもいい。

 沈黙さえ、居心地が悪くない。

 気づけば二時間が経っていた。

「一杯だけの予定だったのに」

 直人が時計を見て笑った。

「……本当ですね」

「もう一杯、どうですか?」

「今日は帰ります」

「残念」

 店を出る。

 駅へ向かう途中、直人が言った。

「また、会ってもいいですか?」

 私は少しだけ迷った。

「……はい」

 その瞬間。

 胸の奥で、何かが小さく動いた。

 それは、三年間ずっと眠っていたものだった。

第5章 恋の入口

 それから私たちは、少しずつ会うようになった。

 仕事終わりにコーヒーを飲んだり。

 休日にランチをしたり。

 駅まで一緒に歩いたり。

 恋人ではない。

 でも、ただの同僚でもない。

 そんな曖昧な時間が、私は嫌いではなかった。

「美咲」

 ある夜、奈緒が私の名前を呼んだ。

「何?」

「好きなんじゃない?」

「誰が?」

「桐谷さん」

 私は黙った。

「……わからない」

「わからないって顔じゃないけど」

「怖いの」

「何が?」

「好きになるのが」

 奈緒は何も言わなかった。

「また同じことになったらって思う」

「恒一と?」

 私は頷いた。

「美咲。恒一と桐谷さんは別の人だよ」

「わかってる」

「じゃあ、どうして同じ結末になるって思うの?」

 答えられなかった。

 過去に傷ついたから、未来まで疑っている。

 頭ではわかっていた。

 でも心は、簡単には変わらない。

 数日後。

 直人からメッセージが届いた。

『今度の土曜日、海に行きませんか?』

 私は画面を見つめた。

『どうして海?』

『なんとなく。水野さん、海好きそうだから』

『どういう意味ですか?』

『静かなところが似合うから』

 私は笑ってしまった。

『変な理由ですね』

『じゃあ、断られますか?』

 少し考えてから返信した。

『……行きます』

 送信したあと、胸が騒いだ。

 たった一日の約束なのに。

 服を選ぶこと。

 髪を整えること。

 天気予報を見ること。

 全部が久しぶりだった。

 土曜日の朝。

 鏡の前で私は思った。

 私は何を期待しているんだろう。

 恋人になるわけじゃない。

 まだ何も始まっていない。

 それでも、胸の奥が少しだけ明るい。

 駅へ向かう道で、私はふと立ち止まった。

 三年前の自分なら、こんな休日を過ごすことはなかった。

 誰かに会うために服を選ぶことも。

 誰かとの時間を楽しみにすることも。

 私はもう一度、誰かを好きになるのだろうか。

 その答えを知るのが、少し怖かった。

 それでも私は駅へ向かった。

 直人のいる場所へ。

第6章 海までの二時間

 海までは電車で二時間かかった。

 窓の外を眺めながら、私は何度も時計を見た。

「緊張してます?」

 向かいに座る直人が笑った。

「してません」

「じゃあ、どうしてそんなに姿勢がいいんですか?」

「……知りません」

 直人が笑う。

 私もつられて笑った。

 電車が海沿いを走り始める。

 窓の向こうに、青い海が見えた。

「綺麗」

 思わず声が漏れた。

「来てよかった?」

「はい」

「よかった」

 海岸に着くと、風が強かった。

 砂浜を歩いていると、大きな波が足元まで迫ってきた。

「美咲、こっち!」

「え?」

 次の瞬間、波が予想以上に近づいた。

「危ない!」

 直人が私の腕を掴んだ。

 私はバランスを崩し、彼の胸に倒れ込んだ。

「……大丈夫?」

「はい……」

 近い。

 顔を上げると、直人の目がすぐそこにあった。

 心臓が、明らかに速くなった。

 直人も何か言おうとした。

 でも、結局何も言わなかった。

「ごめん」

「いえ」

 離れる。

 それだけなのに、名残惜しかった。

 帰りの電車。

 隣の席に座った私たちは、ほとんど話さなかった。

 疲れていたのだと思う。

 電車が揺れる。

 私の手と、直人の手が触れた。

 一度。

 二度。

 私は手を引かなかった。

 直人も引かなかった。

 やがて、彼の指がそっと私の指に重なった。

 そして、ゆっくりと指を絡めた。

 私は何も言わなかった。

 窓の外を見たまま、その手を握り返した。

 それだけで十分だった。

 家に帰ってからも、手の温度が残っていた。

 私はベッドに座った。

 そして、自分の手を見る。

 さっきまで誰かの手を握っていた。

 それが嬉しかった。

 私は認めたくなかった。

 でも、もう誤魔化せない。

 私は、桐谷直人を好きになり始めていた。

第7章 桐谷直人という人

 直人と会う回数が増えるほど、私は彼のことを知っていった。

 好きな食べ物。

 苦手なこと。

 仕事で落ち込んだときの癖。

 コーヒーを飲むとき、必ず最初に一度だけ香りを嗅ぐこと。

 そして、家族のこと。

 ある夜、私たちは駅近くのベンチに座っていた。

「妹がいるんです」

 直人が突然言った。

「何歳ですか?」

「僕の三つ下だから、二十七」

「仲いいんですか?」

「……昔は普通でした」

 直人は少し笑った。

「三年前、妹が病気になって」

 私は黙って聞いた。

「命に関わる病気で。あのとき、本当に怖かった」

 直人の声が低くなった。

「今は落ち着いてる。でも、毎週会いに行ってます」

「そうなんですね」

「家族って、失って初めて大切さに気づくこともあるけど……僕は、失う前から怖くなった」

 私は彼の横顔を見た。

「だから、好きな人ができると怖いんです」

「……直人さんも?」

「はい」

 初めて名前で呼んだ。

 直人がこちらを見る。

「今、名前で呼びました?」

「……呼びました」

「嬉しい」

 少し笑った。

「僕は、失うのが怖いんです。だから、近づきすぎないようにしてしまう」

 私は自分の膝に視線を落とした。

「私もです」

「美咲も?」

「昔、好きだった人に裏切られて……」

 恒一のことを話すのは、まだ怖かった。

「それ以来、恋が怖くなりました」

 直人は何も聞かなかった。

 ただ、静かに言った。

「じゃあ、無理しなくていいですよ」

「え?」

「急がなくていい。僕たちのペースでいい」

 その言葉が、胸に染みた。

 恋は、誰かを好きになることだけではない。

 誰かの怖さを理解しようとすることも、恋なのかもしれない。

「直人さん」

「はい」

「もう少しだけ、一緒にいたいです」

「……僕もです」

 その夜、私たちは手を繋いで歩いた。

 まだ恋人ではなかった。

 でも、心はもう、お互いを選び始めていた。

第8章 好きになってはいけない人

 幸せな時間は、いつも突然形を変える。

「大阪に三か月、行くことになりました」

 直人からそう聞いたのは、桜が散り始めた頃だった。

「三か月……」

「仕事です」

「いつから?」

「来週」

 胸の奥が冷たくなった。

「そうなんですね」

 平静を装った。

「寂しいですか?」

 直人が聞いた。

「……少し」

「僕は、かなり寂しいです」

 その言葉に、私は顔を上げた。

 直人は笑っていた。

「毎日連絡してもいいですか?」

「仕事の邪魔にならなければ」

「します」

「断言するんですね」

「はい」

 出発前夜。

 私たちはいつものカフェにいた。

「帰ってきたら、話したいことがあります」

 直人が言った。

「何ですか?」

「帰ってきてから言います」

「気になる」

「三か月待ってください」

 三か月。

 それだけなのに、長く感じた。

 新幹線のホームで、直人を見送った。

「じゃあ」

「はい」

「美咲」

「はい?」

「ちゃんと待っててください」

 胸が熱くなった。

「……はい」

 電車が動き出す。

 直人が見えなくなるまで、私はその場に立っていた。

 帰宅すると、部屋がやけに静かだった。

 スマートフォンが震えた。

『もう会いたいです』

 私は笑った。

『私も』

 そこから毎日のように連絡を取った。

 朝の「おはよう」。

 昼休みの短いメッセージ。

 夜の「おやすみ」。

 離れているのに、近かった。

 でも、距離があるからこそ、不安も増えた。

 返信が遅いだけで心配になる。

 忙しいと言われれば、寂しくなる。

 私は気づいた。

 好きになるということは、幸せだけではない。

 相手を失う可能性まで、一緒に抱えることなのだ。

 それでも私は、直人を待っていた。

 三か月後。

 彼が帰ってくる日を。

第9章 離れて初めて気づいたこと

 大阪での三か月は、思っていたより早く過ぎた。

 最後の一週間になると、直人からのメッセージが増えた。

『帰ったら、海に行きませんか?』

『また海?』

『最初に二人で行った場所だから』

 私は少し笑った。

『わかりました』

 帰ってきた土曜日。

 待ち合わせ場所に直人が立っていた。

「久しぶり」

「……おかえりなさい」

「ただいま」

 たった三か月なのに、懐かしかった。

 海までの電車。

 前と同じ窓側の席。

 前と同じ景色。

 でも、私たちは以前とは違っていた。

「会いたかったです」

 直人が言った。

「私も」

 海岸に着く。

 夕暮れの海は、以前より静かだった。

「美咲」

「はい」

「三か月、考えていました」

 直人が海を見ながら言う。

「何を?」

「これからのこと」

 胸が高鳴った。

「僕は、あなたのことが好きです」

 風が吹いた。

 波の音だけが聞こえた。

「離れてみて、はっきりわかりました。僕にとって美咲は、いなくなったら困る人じゃない。いなくなってほしくない人です」

 私は何も言えなかった。

「僕と付き合ってください」

 涙が出そうになった。

 三年前の私は、もう恋なんてしないと言った。

 傷つくくらいなら、ひとりでいいと思った。

 なのに今。

 私は、この人の言葉を待っていた。

「私……」

 声が震えた。

「私、とっくに好きでした」

 直人が笑った。

「知ってました」

「嘘」

「本当です」

「じゃあ、どうして……」

「美咲が自分で言うのを待ってました」

 私は泣きながら笑った。

「ずるい」

「ごめん」

 直人が手を差し出す。

 私はその手を握った。

 今度は、迷わなかった。

 夕暮れの海を見ながら、私たちは初めて恋人になった。

第10章 幸せの中にある不安

 恋人になってから、毎日は少しずつ変わった。

 休日には一緒に買い物へ行った。

 どちらかの家で料理をした。

 疲れた日は何もせず、同じソファで映画を見た。

 特別なことは、ほとんどなかった。

 でも、それが幸せだった。

「今日、何食べたい?」

「美咲の料理」

「それは料理名じゃない」

「じゃあ、オムライス」

「子どもみたい」

「好きだから仕方ない」

 そんな会話をして笑った。

 ある夜、食器を片づけていると、私は二つの皿を見つめた。

 二人分の食器。

 その光景が、突然三年前の記憶を呼び戻した。

 白いカップ。

 青いカップ。

 恒一と過ごした部屋。

 胸が苦しくなった。

「美咲?」

 直人が声をかけた。

「……なんでもない」

 私は笑った。

 でも、その日から過去が少しずつ戻ってきた。

 夢の中で恒一を見る。

 昔の写真を偶然見つける。

 あの夜の痛みを思い出す。

 幸せになればなるほど、失うのが怖くなる。

 直人を好きになればなるほど、彼を失う未来を想像してしまう。

「どうしたらいいんだろう」

 ひとりで呟いた。

 恋をしなければ、傷つかない。

 そう思っていた。

 でも今は違う。

 恋をしてしまった。

 だから怖い。

 ある夜、直人が私の手を握った。

「最近、少し遠くない?」

「そんなことないよ」

「無理してない?」

「してない」

 私は嘘をついた。

 そしてその嘘が、私たちの間に小さな亀裂を作り始めた。

第11章 過去からの電話

 電話が鳴ったのは、金曜日の夜だった。

 画面に表示された名前を見て、息が止まった。

 高橋恒一。

 三年間、一度も連絡を取らなかった。

 それなのに、なぜ今。

 私は電話を取らなかった。

 しばらくして、留守番電話が入った。

『久しぶり。突然ごめん。少しだけ話したいことがある』

 声を聞いただけで、胸の奥が痛んだ。

 私はスマートフォンを伏せた。

 直人には言わなかった。

 言えなかった。

 怖かった。

 恒一と連絡を取ったと知ったら、直人はどう思うだろう。

 昔の恋人。

 五年間付き合った人。

 私の過去を全部知っている人。

 そんな人から電話が来た。

 その事実だけで、私は自分が汚れたような気がした。

 数日後、恒一からまた連絡が来た。

『一度だけ会えないかな』

 私は画面を見つめた。

 会いたくない。

 そう思った。

 なのに、心のどこかに「なぜ今さら」という気持ちもあった。

 私は返事をしなかった。

 その代わり、直人からのメッセージにも返信が遅くなった。

 会う約束を断るようになった。

「仕事が忙しくて」

 何度もそう言った。

 直人は何も責めなかった。

 でも、ある夜。

「美咲」

「ん?」

「僕に言えないことがある?」

 私は息を止めた。

「……ないよ」

「そう」

 直人はそれ以上聞かなかった。

 その優しさが、逆に苦しかった。

 帰宅してから、私は泣いた。

 なぜ私は、幸せになろうとすると怖くなるのだろう。

 なぜ過去の人に、今の私まで支配されなければならないのだろう。

 答えはわかっていた。

 私は恒一が怖いのではない。

 また大切な人を失うことが怖いのだ。

 だから私は、失う前に自分から離れようとしていた。

第12章 すれ違う心

「美咲、逃げてるでしょ」

 奈緒の言葉は、いつも容赦がない。

「何から?」

「直人から」

 私は黙った。

「恒一じゃないよ。美咲が怖いのは」

「……」

「直人を失うことが怖いんでしょ」

 図星だった。

「だったら、ちゃんと話しなよ」

「でも……」

「何でも『でも』で終わらせたら、また同じことになるよ」

 私はうつむいた。

「三年前、恒一に裏切られたとき、美咲は傷ついた。でも、その傷を理由に今の幸せまで捨てるの?」

 涙が落ちた。

 その夜、私は直人に電話した。

「話したいことがあります」

「わかった」

 駅前のベンチ。

 私はすべて話した。

 恒一から電話が来たこと。

 会いたいと言われたこと。

 怖くなって、直人から逃げていたこと。

「ごめんなさい」

 私は頭を下げた。

「言えなかった」

 直人はしばらく黙っていた。

「美咲」

「はい」

「僕は、恒一さんのことを消せない」

 胸が痛んだ。

「君の過去も消せない」

「……はい」

「でも、消す必要はないと思う」

 私は顔を上げた。

「僕が好きなのは、過去のない美咲じゃない」

 直人が言った。

「いろんなことを経験して、傷ついて、それでも今ここにいる美咲が好きなんです」

 涙が止まらなくなった。

「だから、僕を選ぶかどうかは、美咲が決めてください」

「……もう決めてます」

「え?」

「私は、直人さんといたい」

 直人は小さく息を吐いた。

「よかった」

 その一言で、私は泣いた。

 恋は、傷つかないことではない。

 傷つくかもしれないと知りながら、それでも誰かを信じることなのだ。

 私は初めて、その意味を理解した。

第13章 最後の電話

 私は恒一と会うことにした。

 場所は、昔二人でよく行ったカフェだった。

 扉を開けると、恒一は窓際に座っていた。

「久しぶり」

「うん」

 昔と同じ声。

 でも、もう胸は震えなかった。

「元気だった?」

「それなりに」

 恒一は少し笑った。

「今日は謝りたかった」

 私は黙って聞いた。

「別れたとき、ちゃんと謝らなかったから」

「……そうだね」

「自分が悪かったことはわかってる」

 恒一は俯いた。

「でも、当時は逃げたかった。美咲と向き合うのが怖かった」

「私も、ずっとあなたを恨んでた」

「うん」

「どうして私じゃなかったのって、何度も思った」

「ごめん」

 その言葉を聞いても、もう涙は出なかった。

「でもね」

 私は言った。

「今はもう、あなたを憎みたくない」

 恒一が顔を上げた。

「憎み続けるって、結局ずっとあなたに心を持っていかれることでしょ」

「……そうだね」

「私はもう、前に進みたい」

 私はバッグの中のスマートフォンに触れた。

 そこには直人からのメッセージがあった。

『終わったら連絡ください。待ってます』

 その一文を見て、私は笑った。

「好きな人がいるの?」

「うん」

「幸せ?」

「うん」

 今度は迷わず答えられた。

「すごく幸せ」

 恒一は少し寂しそうに笑った。

「そっか」

「あなたに言いたかった」

「何を?」

「ありがとう」

「……ありがとう?」

「私を傷つけたことに感謝してるわけじゃない。でも、あの痛みがあったから、今の幸せを大切にできるようになった」

 店を出る。

 外は晴れていた。

 三年前の冬とは違う。

 冷たい風も吹いていない。

 私は空を見上げた。

 過去は消えない。

 でも、過去が未来を決めるわけではない。

 私はスマートフォンを取り出した。

『今、終わりました』

 すぐに返信が来た。

『迎えに行きます』

 私は笑った。

 もう、振り返らなかった。

第14章 あなたを選ぶ

 駅前で待っていると、直人が走ってきた。

「美咲」

「直人さん」

「大丈夫でした?」

「はい」

「泣いた?」

「少し」

 直人は何も言わず、私の手を握った。

 その温度が、心を落ち着かせてくれた。

「私ね」

「はい」

「三年前、もう恋なんてしないって決めたの」

「……うん」

「恋をしたら、また傷つくと思ったから」

 直人は黙って聞いていた。

「でも、違った」

「何が?」

「恋をしないから傷つかないんじゃない」

 私は彼の手を握り返した。

「誰かを好きになると、失う怖さも一緒についてくる。でも、それでも一緒にいたいと思える人がいるなら、その怖さから逃げなくていいんだって」

 直人の目が少し潤んだ。

「美咲」

「私は、あなたを選びたい」

「……ありがとう」

「これからも、怖くなると思う」

「僕も」

「それでもいい?」

「もちろん」

 直人が私を抱きしめた。

 人の温もりが、こんなにも安心するものだとは知らなかった。

「美咲」

「はい」

「僕も、あなたを選びます」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった何かがほどけた。

 帰り道、雨が降り始めた。

「傘、持ってない」

 私が言うと、直人が笑った。

「僕は持ってます」

「……昔みたい」

「そうですね」

 直人が傘を開いた。

 三年前、誰かに貸してもらった傘。

 あの日から始まった。

 雨の中、二人で歩く。

 肩が触れる。

 手を繋ぐ。

 私は思った。

 人生には、やり直せないことがある。

 消せない傷もある。

 でも、その先で誰を愛するかは、自分で選べる。

 私はもう、過去から逃げない。

 そして、この人と歩いていく。

第15章 また恋をする

 二年後。

 春。

 私たちは一緒に暮らしていた。

 朝は直人がコーヒーを淹れる。

「美咲、起きて」

「あと五分……」

「もう十分待ちました」

「じゃあ、あと五分」

「昨日も言ってた」

 そんな会話をしながら朝が始まる。

 キッチンには二つのマグカップがある。

 白いカップと、青いカップ。

 青いカップは直人が使っている。

「これ、似合ってるね」

 ある朝、私は青いカップを見ながら言った。

「何が?」

「そのカップ」

「三年くらい使ってるからね」

 私は笑った。

 以前の青いカップは、もうない。

 でも、青という色だけは残った。

 過去を消す必要はなかったのだ。

 ある休日、私は本棚の奥から古い写真を見つけた。

 恒一と写った写真だった。

 しばらく眺めた。

 昔なら、破って捨てていただろう。

 でも今は違う。

 私はその写真を元の場所に戻した。

 過去は、私の人生の一部だ。

 それを否定する必要はない。

 直人と外へ出る。

 街には桜が咲いていた。

「綺麗ですね」

 直人が空を見上げる。

「うん」

 桜の花びらが風に舞う。

 私は直人の手を握った。

「ねえ」

「はい?」

「私、昔ね」

「うん」

「もう恋なんてしないって思ってた」

 直人が笑った。

「知ってます」

「どうして?」

「前に聞いたから」

「そっか」

 私は桜を見上げた。

 あの冬、恋を捨てた。

 誰かを好きになることは、弱さだと思った。

 愛することは、傷つくことだと思った。

 だから、ひとりで生きようとした。

 でも。

 ひとりで傷つかない人生より。

 誰かと笑える人生のほうが、私は好きだった。

 もちろん、これからも怖くなる日があるだろう。

 喧嘩する日も。

 すれ違う日も。

 いつか別れが訪れる可能性だって、ゼロではない。

 それでも私は、この人の隣にいたい。

 未来が約束されているからではない。

 約束されていなくても、一緒に歩きたいと思うから。

「美咲」

「なに?」

「行きましょうか」

「うん」

 二人で歩き出す。

 桜の花びらが、私たちの肩に落ちる。

 私は空を見上げた。

 あの日、恋を捨てた私へ。

 もし今、声をかけられるなら伝えたい。

 大丈夫。

 あなたが傷ついたことには、意味がある。

 でも、その傷がこれからの恋まで決める必要はない。

 もう一度誰かを好きになることは、過去を裏切ることじゃない。

 もう一度幸せになることは、忘れることじゃない。

 ただ、自分の未来を、自分で選び直すこと。

 私は隣を歩く直人を見た。

 彼が笑う。

 私も笑う。

 そして、握った手に少しだけ力を込めた。

「ねえ、直人」

「はい?」

「これからもよろしくね」

「こちらこそ」

 春の風が吹いた。

 桜が舞った。

 私は、もう怖くないわけじゃない。

 それでも、恋をしている。

 愛している。

 そしてこれからも、何度でもこの人を選んでいく。

 三年前。

 私は言った。

「もう恋なんてしない」

 あの言葉は、嘘ではなかった。

 あのときの私は、本当にそう思っていた。

 それほどまでに、傷ついていたから。

 でも人生は、不思議だ。

 閉じた心にも、いつか光が差し込む。

 もう誰も好きにならないと決めた私の前に。

 一人の人が現れた。

 雨の日に傘を差し出してくれた人。

 コーヒー一杯の時間をくれた人。

 海で私の手を握ってくれた人。

 私の過去を消そうとせず、そのまま受け止めてくれた人。

 そして、怖がる私に言ってくれた人。

 ――急がなくていい。

 だから私は、もう一度恋をする。

 これからも。

 何度でも。

 あなたと。

「もう恋なんてしない」

 そう思っていた私に。

 また恋が訪れた。

 そして今度は、その恋を。

 私は、自分の手で大切に育てていく。

タイトルとURLをコピーしました